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月刊『理念と経営』11月号の「逆境!その時、経営者は...」にて、弊社代表小嶋の取材記事が掲載されました

2024.10.24

写真:月刊『理念と経営』11月号の「逆境!その時、経営者は...」にて、弊社代表小嶋の取材記事が掲載されました

月刊『理念と経営』11月号の「逆境!その時、経営者は...」にて、弊社代表小嶋の取材記事が掲載されました。

『理念と経営』について

月刊誌『理念と経営』は、中小企業に活力を与えることを目的に、2006年1月に創刊されました。全国の中小企業の信念を形にするための闘いを描く物語を通じて、多くの企業事例や逆境を乗り越えるヒントを提供しています。感動的な内容を含む記事が多く、人と企業に光を当てた経営誌として広く支持されています。

掲載いただきました記事のタイトルは「父のつくった会社を人々に愛される会社に」です。代表の小嶋は、父が築いた家業を引き継いだ瞬間からの道のりを振り返ります。予期せぬ逆風に直面し、バブル崩壊の影響で木造建築市場が厳しい状況にあった中、日々はまさに地獄のようでした。しかし、その困難の中で東京の森で育った木々に目を向け、新たな価値を見出すことになります。苦悩と葛藤を抱えながらも、逆境に対してどのように立ち向かい、より良い会社へと進化し、多くのお客様にご支持いただけるようになったのか、その軌跡をお話ししております。ぜひご一読いただけますと幸いです。



父のつくった会社を人々に愛される会社に

家業に入った途端、売りの木造建築に思いがけない逆風が吹いた。バブル崩壊も重なり、地獄のような日々が続いたが、東京の森で育った木々に改めて着目し、見事に巻き返した道とは。

バブル崩壊と震災・・・家業に吹く逆風

来年、創業60周年を迎える小嶋工務店。創業以来、東京の西然・小金井市に本社を置き、地域に密着して注文住宅の建築、販売を行ってきた。三代目の小嶋智明さんが入社したのは、1995(平成7)年一月七日、27歳のときだった。大手住宅メーカーで営業をしていた小嶋さんが、「いくら働いても給料が上がらない」と愚痴を言ったら、創業者で父親の算さんが「うちに来い。倍は出す」と言った。それが入社のきっかけになったそうだ。ところが、入社して10日後に阪神・淡路大震災が起こった。多くの家屋が倒壊した映像がニュースで流れ、「木造住宅は弱い」という印象が定着した。「バブル崩壊で住宅メーカー同士の低価格争いが激化していて、その上に大震災です。給料の話は、どこかに消えてしまいました。」当時の売り上げは約30億円。それが震災の翌々年には半減した。社員が110名ほどいて固定費や販管費だけで八億円は必要だったという。いくら営業に力を入れても借入金は増える一方だった。1998年には、銀行からの借り入れが16億円に膨らんだ。父が幹部を集めて、「会社を畳む」と話すまでになった。

倒産は避けたいと懸命に動き回って、取引会社からの出資を受けることができたんです。父は会長になり、設計部長だった兄が社長になりました。」兄は「いいものをつくれば売れる」という方針を貫いたそうだが、売れず、借入金はさらに膨らんだという。「私は、何が“いいもの”なのか、その基準が明確でないとお客様はわからないと思っていました。数字で説明できるような根拠がないと伝わらないんです。」

二年も経たずに兄は会社を去り、再び父の算さんが社長に就いた。営業部長という立場にいた小嶋さんは、その頃から“自分が会社を変えなければいけない”と本気で思うようになった、と話す。やがて常務になり、営業だけでなく会社の資金繰りも真剣に考えるようになった。つらかったのは、会社の改革案を役員会に提出しても、出資会社から来ている役員たちに否決されることだったという。「一人また一人と私の考えに共感してくれる人を役員にし、役員会の構成を変えていきました。その一方で銀行に融資のお願いに回る。いまは笑っていますが、当時の私は“人間の顔”をしていなかったと思います。」

金と人間関係という、二つの地獄

その苦しい時期を小嶋さんは「地獄」と表現する。地獄は二つあった。一つは金の地獄である。返さなければならない借入金の利息だけでも、年間で8,000万円を超えていたそうだ。その中で月々の資金繰りもしなければならない。「例えば会社にお金が70万円くらいしかないのに、10日の支払い日には一億数千万円必要だと、毎月がこんな感じです。必死で集金に回り、銀行にも頭を下げて回る。毎日がイライラのピークでした。」銀行の担当者から指を差されてこう言われた。「あなたは不良債権なんだよ。自覚してください。」小嶋さんは何かの時のために銀行との折衝はいつも録音していたという。この言葉も録音した。「まだ30歳半ばの若い頃です。自分を奮い立たせるために、何度も聴き直しました。」まさに臥薪嘗胆である。経営計画書など書類を山ほど用意して飛び込んで金融機関に行っても、一瞥されるだけだった。支払いを滞らせないために自分の貯金を崩し、時に高金利でも頭を下げて借りた。

もう一つの地獄は、人間関係の地獄だった。「業者や株主、社員たちに、たかだか30歳半ばの若造がガッと責められるんです。そこを踏ん張って、一人ひとり離していかなければいけないし、場合によっては切らなければならないこともありました。生き残るために、いろんなことをやりました。」それでも心が折れなかったのは、なぜだったのか。「いまも父は元気でいますが、父が死ぬときに会社を完璧な状態にしておいてあげたかったのです。」あなたのつくった会社は、世の中に必要とされ、大勢のお客様に愛されている。小嶋さんは、そんな会社の姿を創業者の算さんに見せたかったのだ。「私は子どもの頃、プロゴルファーになりたかったのですが、父は私の夢を叶えさせようと、ゴルフのレッスンにお金をかけてくれていたんです。」結局、高校の頃から会社の経営が悪化し、ゴルフの夢はあきらめたそうだが、全日本ジュニアの試合で上位にまでいったという。その恩返しの思いが強いのだ。

東京の森を育て、東京の木で家を建てる。

資金繰りに奔走しながらも、経営の健全化にも力を入れています。「会社の良いところ、悪いところを全て書き出しました。良いところは5つ、悪いところは242個もありました。」良いところは次の5つです。

  • 1,会社を好きでいてくれる人が5人いること。
  • 2,創業者がまだ存命であること。
  • 3,ソーラーサーキットという外断熱の二重張り工法を、他社に先駆けて導入したこと。
  • 4,東京の真ん中に位置する小金井市に本社があること。
  • 5,まだ支援してくれる株主がいること。

逆に、悪いところの242個は、物件が雨漏りしたり、水漏れがあったりと、施主に迷惑をかけた事例の累計です。「こんな会社は社会に必要ないんじゃないかと思うくらい、たくさん出てきました。それらをカテゴリー別に分けて、一つずつ解決していきました。」新しい方向についていけないと辞めていく社員も増えました。社長に就任した2010年には、一人が辞めたそうです。「そのおかげで、約1億円の固定費が削減できました。」

さらに、その年には、3年前から挑戦してきた国土交通省の「長期優良住宅先導事業」に提案資料が採択されました。この提案は、東京の杉や檜を使って家を建てることで東京の森を育てようというものでした。「最初は一人で応募していましたが、2年目からは社員に声をかけて、チームで提案資料を考えました。その一人から出た案が“地元密着の企業として、多摩の木を使わないか”というものでした。」国交省の事業に採択されたことが社員たちの自信につながり、経営再生の大きな転機になりました。小嶋さんは、木の良さを理解してもらうためには客観的根拠を示すことが大切だと考え、自社で使う木に厳しい品質基準を設けました。木材の変形しにくさを示す「ヤング係数」や含水率などの数値を計測して明示することにしました。

さらに、従来の木材は人工乾燥で水分を落とす方法を取っていましたが、香りの元である油脂分も抜けてしまうため、天然乾燥を推奨しました。「普通の木材は人工設備を使って短時間で乾燥させますが、そうすると杉や檜の色艶や良い香りが出ないんです。」天然乾燥には半年ほどかかります。木を乾燥させる場所も必要ですし、乾燥中の半年は当然お金になりません。当初、多摩地区の林業家や製材会社は、誰も耳を貸してくれませんでした。たとえ天然乾燥させても、小嶋工務店が定めた品質基準をクリアできるのは、3本に2本という厳しいものでした。

小嶋さんは何度も足を運び、彼らが懸念している問題を一つひとつ解消していきました。基準に満たない木も買い取る約束をし、乾燥する間の資金繰りにも協力しました。同時に、「東京の木で家を建てることで森を育てる」という理想や意義を伝えていました。「5年くらいかかりましたが、何社かの林業家や製材会社の賛同を得ることができました。」小嶋さんは、その木を「TOKYO WOOD」と名づけ、今では一つのブランドとして確立されています。

子どもたちが喜ぶ多摩の森でのツアー

「TOKYO WOOD」で建てた一棟目の家の柱が立ち上がったときのことです。現場近くの人から「いい匂いですね。何の匂いですか?」と聞かれました。「木の良さをわかってもらえたとうれしかったですね。」なによりの裏めい葉でした。「TOKYO WOOD」を使った家はどうしても割高になります。だからこそ、同社では品質の高い木材の良さを知ってもらい、地元の木である「TOKYO WOOD」を使って家を建てたいと思ってくれるファンをつくるために、年三回の「TOKYO WOODバスツアー」を開催しています。森林を歩き、製材所で杉や檜の香りに浸りながら原木の話を聞きます。一番喜ぶのは子どもたちです。

若手社員たちは、積極的にSNSで「TOKYO WOOD」についての動画の配信もしているそうです。国交省の「長期優良住宅先導事業」に採択されてから、同社では社員同士でチームを組んで国や自治体のコンペに応募し、毎年一つの賞を取ろうという取り組みも続けてきました。それが社内の雰囲気を前向きに変えていったのに違いありません。「ようやく二年前、令和4年に実質上の無借金経営になりました。25年、長かったですよ」。ゴルフをあきらめて、高校時代は陸上の長距離走に転向しました。お金がかからないスポーツだったからです。「長距離って、走っているときに“いいや、死んでも”と思った瞬間にポンと記録が伸びるんです」。小嶋さんは、経営も同じだと言わんばかりに、しみじみとそう話すのだった。