序章
prologue
1937
少年と、木との出会い。
1937年、創業者である小嶋算(こじまかずえ)は新潟県柏崎市に生まれました。小学生の時代、冬になると実家には5~6人の若い衆が居て、よく山に木を伐りに出かけていました。
当時10歳の算はよく同行し、「算、おまえもやるか!」と言われ、興味本位で直径1m20cmもある大木を雪の中で倒していたそうです。
大きな木が白い雪の上に、大きな音を立てて倒れて行く時の感動と、切り口から漂う木の香りには何とも言えない心地よさを感じたと言います。
やるしかないと決意。
算が12歳の時に父は結核を患い、長期療養を余議なくされました。
昨日までの幸せの日々が一転し、明日からの生活もままならない状態の中、中学を卒業し、自分の好きな建築屋になる為、大工を志したのです。
しかし、15歳の大工の弟子では、月に小遣い程度のお金しか貰えない。
やむなく土方仕事に身を置き、春、夏、秋と地元で仕事をし、冬は出稼ぎで富山県の神通川発電所工事など、お金になる仕事があれば何処へでも飛んで行きました。
1954
建築屋への想いを貫く。
17歳の春、大工の夢を捨て切れず、地元の建築屋さん(現:第一建築合資会社)へ相談に行き、弟子入りを志願しました。家族の生活もあるので「小遣い銭では困ります。一生懸命励みます。」と懇願し、日給で弟子にさせていただくことが決まったのです。
冬になると積雪のため、仕事が無くなるのは建築業も例外ではなかった。そんな時、小嶋家の親戚筋で千代田内幸町で建設会社の専務をしていた方を頼り、出稼ぎとしてお世話になることになりました。会社の社長は宮内庁で課長を務められていた経歴もあり、宮内庁や関東財務局等の仕事を多く請け負っていました。
24歳になり、木造の仕事が好きな算は、関東財務局職員寮の仕事を担当、柏崎地方や東北地方から大工職人を大勢集めて工事を進めていった。現在で言う「現場監督」のような仕事でした。
そんな努力と功績が認められ、年間を通して会社の仕事をするように勧められ、東京で働く事となりました。
一生のパートナーとなる、
運命の「出会い」。
25歳になった算は、周囲からお見合いを勧められました。お会いすることになったのは21歳の女性。
彼女は当時、病院に住み込みで勤務しており、なかなか時間が取れない為、親方をオートバイの後ろ乗せ、彼女に会いに出向いていたそうです。病院に到着すると彼女が出てきてこう言います。「先生には内緒にしているので、外でしか話はできません。」これが初顔合わせでした。
目立たぬよう、病院の外庭まで移動すると、親方は気を利かせて「この人が伊藤清子さんか。後は二人で話しなさい、俺は帰るよ」と言ってその場を後にしました。
病院の外庭は暗く、院内からの明かりが、かすかに顔を照らす程度、顔もよくわからない状況でしたが、話をしているうちに算は、「この人となら一緒になっても良いな」と感じたそうです。一目惚れではなく、「人身惚れ」と話します。2回目に会った時、「こんなに美人だったのか」と、改めて惚れ直したと照れくさそうに話してくれました。
創業期
initial period
1965
府中にて、小嶋工務店創業に込めた3つの誓い。
杉並の成宗に住まいを置き、様々な所で仕事をこなしていく中、1964年(昭和39年)に長男が生まれました。子供の将来を考え、安定した場所で仕事をしたいと思っていた矢先、知人から「府中市新町に自宅を新築して欲しい」との依頼が舞い込んできました。
さらに新築しても5年間は住まないという事情のようで、算に「住まないか?」と尋ねました。この事がきっかけで府中に引っ越す事になりました。そしてこの地が小嶋工務店発祥の地となりました。
府中に住むようになって、順風満帆とも思える日々を過ごして間もなく、大変お世話になっていた会社が倒産してしまいました。算を含め大勢いた職人は辞めてもらう事になった。
これが独立のきっかけで、1965年(昭和40年)7月に小嶋工務店を旗揚げしました。算と妻、弟子3人の計5人でのスタート。不安も多かった独立だったと振り返り、創業する時に誓ったことが3つありました。
創業時の3つの誓い
-
promise.1
下請けは
やらない。 -
promise.2
丈夫な建物を
造る -
promise.3
約束を守り
人に迷惑を
かけない。
初めての仕事は
隣家のトイレ修理。
大勢の大工・職人と離れ離れになり、職を失うということがどれほど辛いことなのか、そんな苦労はもうしたくないという思いから、元請けとして仕事をいただけるようになることを誓ったのです。
そんな事を誓いながら始めた小嶋工務店も、10日が経ち、20日が経っても、仕事の依頼は無く、「何とかしなくては...」と悩んでいた時、隣の家の奥様から「トイレの調子が良くないので見てください」と相談を受けました。これが小嶋工務店としての初めてのお仕事の依頼でした。
この時は、嬉しくて涙を流しながら皆で抱き合ったのをよく覚えているそうです。あまり大きな声では言えませんが、小嶋工務店創業 第1号のお仕事は、「トイレの修理」だったのです。頂いた代金も千円であったそうです。
しかし、それからはご紹介や、ご近所の方からの相談も増えていき、見知らぬ土地で、多くのお客様に助けて頂きながら「小嶋工務店」は少しずつ成長していきました。
発展期
period of development
1968
創業3年、
有限会社から株式会社へ。
創業三年目になる頃には「小嶋工務店は真面目で良い仕事をする」とご近所から言われるようになり、仕事も多くなってきました。
自宅兼作業場の庭先では手狭になってきた為、仕事場の土地を探し始めました。ようやくして決めた地が、現在の本社所在地です。1968年(昭和43年)に100坪を1,600万円で購入したそうです。
小金井市前原町に事業所を移し、その年に法人化して有限会社小嶋工務店を設立した。購入した100坪の土地に16坪の事務所と作業所を造り、算の妻は事務と電話番をして、算は営業と現場管理をしていました。
増改築を含め八ヶ所の現場と営業を一人で担っていたそうです。大変だとは思わなかったようで、せっせと仕事に取り組んでいました。そんな努力の甲斐か、仕事は自然に多くなって来ましたので、社員も増えて組織化していったこともあり、1971年(昭和46年)に株式会社小嶋工務店に改称した。1972年から、地元での信用力を付ける為、関係官庁の指名入札への参加も始めていきました。
創業から10年の飛躍。
- 昭和47年
- 建築業界で初めての15年保証制度を開始。
- 昭和49年
- 本社社屋を建て替え、1階に室内展示場をオープン。
- 昭和51年
- 多摩市桜ヶ丘「京王線聖蹟桜ヶ丘駅」に初めての営業所を開設。同年、本社隣に(株)小嶋産業を設立。(不動産事業)
- 昭和52年
- 武蔵村山市榎に土地300坪、建物延床面積600坪、新築同様の工場物件購入当社、木材加工工場として稼働。
1975
1000分の1ミリの誤差も無い
高品質の量産を求める。
ある日、「大工さんが墨付けをしなくても家が建つ」そんな方法があることを耳にした。早速調べてみると、それは機械(プレカットマシーン)によるものでしたが、まだ現存せず、これから開発するとのことだった。機械は1台8000万円もの高額で、納期まで1年はかかるが、何としてもこの機械を入手したい気持ちでいっぱいだった。
元来、木造の建物は大工さんが墨を付け刻む(キザム)ことで家を建てていましたが、この工法は機械で木材をあらかじめ加工して使用するので、熟練の大工さんでなくても家が建てられる。
当時求めていたのは、「自由設計で高精密度のプレカットが出来る機械」。これらの条件で、静岡県の宮川鉄工様にお願いし、数十回に及ぶ打合せと1年の歳月をかけ、弊社で希望する機械を作っていただいた。
お客様と15年の約束
住宅需要が増え、建築ラッシュにより業績は好調だった。そのためサービスの質を高めることにも注力を進めていった。
雪国生まれの算は、新潟での修業時代から木造住宅は50年や100年は使えるものと思ってた。しかし東京に来て建物の構造があまりにもチャチなのに驚いたという。雪国の家は雪の重みに耐えなくてはならないのでとても頑丈。
小嶋工務店の家づくりも自信をもって提供しているという自負から、サービス部門を立ち上げ、15年の保証サービスを開始した。建築が完成されてからが真の始まりである。サービス部門は毎年サービス月間を設け、お施主様の快適な暮らしを維持し、守ることをお約束した。
算は“まごころ”という言葉が好きで、奉仕の精神で、日夜活動するようにと従業員に言い聞かせていた。
1978
誇りとなった、
オレンジ色の屋根瓦。
武蔵村山のプレカット工場誕生により、資材の一括購入から高精密度のプレカットマシンによる加工、製材、品質管理まで自社で一貫して行えるようになり、大工さんの人数や経験・技術に頼らずとも、質の高い木材を効率よく作り、短期間でたくさんの家を建築することが可能になりました。新築棟数は3年連続で年100棟を超えるなど、弊社が飛躍的に成長するきっかけともなりました。
そして、多摩エリアで初めて50棟を超える大規模な総合住宅展示場「立川展示場」の建設が決まったのも、ちょうど弊社の躍進がはじまったのと同じタイミングでした。弊社はこの機に乗じて、更なる成長と発展を願い、工務店としては異例であった2棟のモデルハウスを同時出展することを決意。立川展示場は連日大盛況で、特にオレンジ色の瓦屋根が印象的だった洋風モダンなモデルハウス『パルテノン』は人気を博し、当時、本社近辺にはこのオレンジ屋根の家がたくさん建てられ、それを見るたびに社員一同、誇らしい想いで胸がいっぱいでした。創業から10数年、弊社の地道な家づくりが、大きく実を結んだ瞬間であった。
受け継がれた、
オレンジ色の誇りと願い。
弊社で現在も続けている地域清掃活動『オレンジday』の名称は、実はこのオレンジ色の瓦を由来にしています。この時代の誇りと喜び、そして今も変わらず小嶋工務店を支えてくれている皆様との絆を忘れず、これからも地元で愛される工務店であり続けようという強い想いを、忘れないために。
成長期
growth period
1981
RC事業部の飛躍と成長。
木造住宅の建築棟数が順調に増えていくなか、算はさらに事業拡大を目指し、1975年頃から着手していたRC(鉄筋コンクリート)建築の強化を計画。社寺建築・高層ビル建築専門のASCA事業部を設立し、関係官庁の指名競争入札にもあらためて力を入れ、着々と実績を上げていきました。
府中市を中心に、老朽化したビルの建て替えや新築の高層ビル建設を一手に担い、売り上げは木造住宅を超えました。この時代の好景気の波に乗り遅れることなく、業績と社員数を拡大させていきました。
1985
モデルハウスの建設ラッシュへ。
ASCA事業部の躍進と同じく木造住宅も棟数を増やし続け、複数の総合展示場にモデルハウスを出展。この年には三鷹展示場、1988年にはリニューアルした立川総合展示場あらため「立川サンシャインパーク展示場」に『パルテノンV』、1989年には八王子展示場に『パルテノンⅥ』、さらに世田谷、二子玉川、小平などの展示場にも次々とモデルハウスをオープンしました。
また、1988年には、武蔵村山工場から改称した小嶋木材加工㈱に当時の最先端技術を導入し、コンピューター制御による完全自動プレカット化へと移行。加工精度と生産性がさらに高まり、弊社の業績を伸ばす、大きな下支えとなっていきました。
1989
時代は昭和から平成へ…
小嶋工務店の黄金期。
社員数も100名となり、売上高も年々上昇していきました。さらにこの年には、現社屋である自社ビルを建設いたしました。新たに地上4階・地下1階の本社ビルが誕生したのです。時は昭和60年代から平成へ。順風満帆、小嶋工務店は絶頂期を迎えました。
1990
低価格競争の激化。
デフレ、バブル崩壊の足音。
RC事業の売上拡大やモデルハウス建設ラッシュ、そしてこの年には住宅のリフォームやメンテナンスを手掛ける㈱リフォームコジマを設立するなど、目覚ましい成長を続けていましたが、90年代以降、少しずつ陰りが見え始めました。
この時期、住宅業界は低価格競争が激化しデフレ時代に突入していました。質の高い丈夫な建物を造ることをモットーにしていた弊社は価格を極端に下げることはできず、日に日に受注が落ちていったのです。そして、同じころに忍び寄る、日本全体の景気を一変させ、長い不況の引き金となったバブル崩壊。小嶋工務店の低迷時代が、すぐそこまで迫ってきていたのです。
1992
ソーラーサーキットシステムとの、運命の出会い。
ローコストに対抗するには、初期投資がある程度かかっても高性能で快適、ずっと住み続けられる強さを持ち、長期的に見ればよりお得感のある家を作ること…そう考えていた、まさにその時でした。
現在でも弊社の住まいにおける温熱環境のベースとなっている、鐘淵化学工業㈱(現㈱カネカ)が開発した『ソーラーサーキットシステム』との、運命的な出会いがあったのです。
この頃に現代表の小嶋智明も小嶋工務店に入社、父である算と共に、新商品の導入を進めていきました。当時は内断熱(充填断熱)工法が主流で、まだ全く知られていなかった外断熱という言葉を世に広め、さらに季節により家自体が衣替えをして室温を調整するという画期的なシステムに、驚きそして心躍らせたことを、今でも思い出すと代表の小嶋は話します。
そして、特に素晴らしかったのは、「計画換気」を採用している点でした。
内断熱工法は壁の内部が結露しやすくカビ・ダニが発生してしまい、計画的に換気をしていない住宅では真菌性肺炎等になる方が増える、いわゆるシックハウス症候群が知られるようになっていたのです。ソーラーサーキットシステムは計画換気をいち早く搭載しただけではなく、室内の空気環境に対して具体的な数値を出し、快適で健康的であることの科学的根拠を明示した最初の工法でした。そしてそれは、2003年(平成15年)、建築基準法の改正で「シックハウス対策」が義務づけられるまで、10数年にわたり空気環境について時代をリードするのでした。
時代を先取る家づくりは、小嶋工務店のベーシックに。
また、ヤマトシロアリしかいなかった多摩地域にも、地球の温暖化と共に南部から広がったイエシロアリが生息するようになり、新たなシロアリの脅威にさらされる時代となった。
そのような中で、ヒ素系のシロアリ駆除剤がハウスメーカーの標準(今でも採用してる会社がある)であったこの時期に、ソーラーサーキットシステムはTMFS(ターミメッシュフォームシステム=目の細かいステンレスメッシュで物理的にシロアリの侵入を防ぐ工法)を標準で装備していました。㈱カネカの開発者が、オーストラリアのハイスクールで起きた、ヒ素系薬物の散布による子供達への皮膚害から既に現地では薬剤散布を禁止しているという事を聞き、日本の住宅のために薬剤を使わない防蟻工法を開発・ソーラーサーキットに採用したという。
これら壁内結露の問題や、計画換気の必要性、薬剤散布・塗布による防蟻の課題等、当事すでに建築雑誌では取上げられていても、一般のお客様には全く伝わっていませんでした。そんな時代であっても、15年後のスタンダードを常に見続けているのが、ソーラーサーキットシステムでした。算は売れる売れないということよりも、常に時代の先を行くものを作り、時にマニアック過ぎる事もあるが、我々地元の工務店と唯一同じ目線で商品を開発してくれたのが、㈱カネカだったのです。その感性に弊社は強く共感し、この年に提携、以降小嶋工務店の家のベーシックとなる、ソーラーサーキットシステムを導入することとなりました。
低迷期
period of decline
1995
住宅業界を震撼させた、阪神・淡路大震災。
平成に入り、デフレ、バブル崩壊に続き、さらに住宅業界を揺るがす出来事が発生した。阪神・淡路大震災である。
この時、最盛期を迎えていた在来工法(木造軸組工法)のハウスメーカーが、震災で破壊された木造住宅の写真を手に営業するハウスメーカーにことごとく敗れ去り、市場から退場させられてしまう事態となった。
現在では、RCや2×4、パネル工法のほうが強いと盲目的に信じている人は少なくなったものの、当事はこの映像や写真をもとに、「在来工法=地震に弱い」とマスコミに盛んに取り上げられ、かくいう在来工法を主としていた弊社も徹底的に叩かれる事となったのです。
相次ぐ災難により、当時乱立していた建築会社・ハウスメーカーはどんどん淘汰されていき、さらに追い打ちをかけるように、1997年には消費税が3%から5%に引き上げられ、消費が低迷。銀行の貸し渋りも始まっていた。
弊社では府中にソーラーサーキットシステムの宿泊体感住宅をオープン、高耐震性能住宅『ウィズ・サーティ』や、高気密・高断熱住宅のオリジナル商品を発表するなどで起死回生を図っていたが、すでに経営はギリギリのところでした。
1998
小嶋工務店の低迷時代へ。
RC建築の売上の激減、資金調達の困難、非効率な経営体制などが重なり、とうとう、小嶋工務店は低迷時代へと突入するのです。創業者としてここまで会社を牽引した算は代表を退任することになりました。紆余曲折を経ての一族経営の脱却、ASCA事業部の解体、関連会社の清算、株主の皆様の資本参加など、激動の、そして10年以上の長きにわたる再構築が始まります。
代表の小嶋はお客様の依頼一つひとつに誠意をもって対応しつつ、分厚い事業計画書を片手にあらゆる銀行へ奔走し、社内では事務用品の節約、自動販売機の廃止など小さなところから地道に経費削減を取り組む日々。再構築のために考えて書き溜めた提案書たちは、今も社の引き出しに戒めのようにしまっていると小嶋は話します。そしてこの中のひとつに、最も重要で早急に実施させた対策があった。弊社のために働く職人さんの意識改革でした。
「自分の子どもの家を建てる気持ちで」
職人さんたちと向き合った日
どんなに高性能で魅力的な間取りの住まいを設計しても、実際に手を動かす職人たちが、好景気時代の浮ついた気持ちのまま家づくりをしていては、すべてが台無しになってしまう。当たり前のことだが、工務店の一番の核は職人さんであるからこそ、最初に手を付けた改善項目だったのです。
小嶋はまず、研修として社に20名ほどの棟梁に集まっていただき、現状の不満を語らせてもらった。
『棟梁にお願いがあります、自分のお子さんの家を建てる気持ちでつくって下さい。会社として、今の皆さんの仕事ぶりに大いに不満を持っています。こちらがそう思うのですから、お客様はもっと感じていると思います。これからは当社の理想とする、“技術の小嶋”と言われる会社にしたい。もし、社の考えに賛同できないのであれば、出来る方だけでやって行きたいんです。こちらの考え方が間違っていると思う方は、どうぞ退席してください。』
実際これを聞いて部屋を出て行ってしまう職人さんも数名いたが、大半の棟梁は「俺達のどこが悪いのか言ってくれ、何が不満なんだ」と真剣に想いを受け止めてくれ、研修後は昼夜を問わず連絡が入り、毎日のように現場で話し合いは続いたと言います。
社長交代、外部企業の資本参加などで、社員や職人さんは船頭を無くした船のように、不安に思われていただろう。小嶋は申し訳なさをひしひしと感じていたが、それでも断固たる決意を心に秘め、一歩一歩着実に職人さんの意識改善をさせていった。
『一棟入魂』
お客様への感謝の気持ちを
忘れないように。
この研修が、現在も続いているCIS(Customer Satisfaction +Impression)研修です。第1回目は実質棟梁との対話となったが、その後弊社の現場で働く方全員に年2回にわたり、お客様の気持ちについて全員で学んでいる。
仕事は降って湧くものではない。家を作るという人生の一大事業をお任せ頂ける喜びと感謝の気持ちを必ず忘れずに、現場で働かせて頂こうという気持ちを、少しずつ皆とシンクロするようになっていったのです。
現会長の算はこの気持ちを『一棟入魂』という言葉に残し、今も全体会議で毎回語りかけ続けています。
再成長期
To overcome any obstacle
2005~
同業者の意識の高さに呆然。
このままでは、本当に終わる。
社員や職人さんだけではなく、当然経営陣にも大きな意識改革が必要であった。今までのように、丈夫で快適な“良い家”を、ただ漫然と建てていればいいという時代はすでに終わり、会社として新たに歩むべき道筋を見出せなければ、生き残ることはできない。それを改めて気付かされたのは、偶然参加したシンポジウムの場であった。
自分たちと同じく苦境に立たされていると思っていた同業工務店たちは、まったく違うステージにいた。いち企業としての、地域社会から日本、ひいては世界、環境までを見据えた多角的な経営戦略や、全社を挙げて目標に向かい常に前進しようとする意識の高さを、まざまざと見せつけられた。あまりのレベルの差に非常にショックを受けた。小嶋と共に参加した社員はなによりも悔しかったという気持ちで、会場を後にしたのでした。
再起を賭けた、プロジェクトの発足。
自分たちも変わらなければ、このままでは本当に負けてしまう。終わってしまう…そう感じた焦りと悔しさを起動力に、弊社はこれまでにない、異次元の目標を設定しました。自分たちが今まで培ってきた経験や技術、地元に根付いたネットワークを最大限活用した新しい家づくりのビジネスモデルの構築。業界の金メダルとも言われる、『国土交通省 長期優良住宅先導事業』※に採択されること。
ここで発足したプロジェクトが、のちにソーラーサーキットシステムと並び、弊社の家づくりのブランドとなる『TOKYO WOOD』の誕生にもつながっていくことになった。
※「いいものをつくってきちんと手入れして長く大切に使う」というストック社会の住宅のあり方について、広く国民に提示し、技術の進展に貢献するモデル事業を国が公募し、優れた提案について事業の実施に要する費用の一部を補助する制度
プロジェクトの命運を分けた、ある社員の出現。
もともと弊社では多摩産材を多く使っていたため、地元の木を使った地産地消の家づくりを主軸にすることを決めていたが、それだけでは今まで採択された他の事業モデルと変わらない。その課題を打開する鍵となったのは、あきる野市にある有限会社中嶋材木店と提携を結び、さらなる地域社会への貢献と林業の活性化を図ること。
このプロジェクトの命運を分ける計画を成し遂げたのは、プロジェクトメンバーであったあるひとりの社員でした。
小嶋工務店を救う、“宝”はすぐそこに。
プロジェクト発足以前、社の再構築案のひとつとして、社内や工事現場での作業効率化を進めていた。その時、数年まったく改善できなかったことを、数ヵ月であっさりとやり遂げてくれたのが松野(現:建設部 取締役)でした。
小嶋はそれまで正直ほとんど会話らしい会話をしたことがなく、まったくノーマークの人物であったが、ふとしたきっかけで非常に優秀で行動力があり、物事を最後までやり遂げる強靭な精神力のある、弊社にとっての宝だとその時初めて気が付いたという。
低迷時代の弊社を照らす光となったのは、このプロジェクトと、もうひとつは優秀な人材の発見であった。本当に今更だが、きちんと社員一人ひとりの知識や才能と向き合い、あの辛い時期に社員にもっと頼れば、より早く社を再生できていたかもしれないと振り返る。
今はそれを教訓にして、何か新しいことをするときにはプロジェクトチームを結成し、リーダーに任せるようにしている。そうすることでリーダーのみならず、社員みんなの責任感が飛躍的にまして爆発的に成長し、結果的に会社も大きくレベルアップすると分かったからです。
2010~
創業以来、史上最大の偉業を実現。
すべてはここから始まった。
『国土交通省 長期優良住宅先導事業』は過去二度落選しており、小嶋も正直諦めかけていました。しかし新たに発見した優秀な社員たちとさまざまな会合に出席し、何度も悔しい思いを重ね、学び、そして、彼らを中心としたプロジェクトメンバーを結成し、毎日のように終業後集まって夜中まで話し合い、ようやく締め切り一時間前に提案書が出来上がり投函。満を持して三回目の挑戦を果たしたのです。
そして数ヵ月後、見事に採択(受賞)が決定。松野を筆頭にしたプロジェクトメンバー全員で涙し、弊社史上最大の偉業を成し遂げたことに歓喜した。
さらに、同年には多摩地域で活躍する中小企業の優れた技術や経営手腕を評価し、表彰する多摩ブルー・グリーン賞(経営部門)で、『多摩の檜で造る東京の家』が奨励賞を受賞。今では当たり前のように様々な受賞をしているが、すべてはここから始まり、その後、数々のメディアの方に取上げて頂けるようになった。
2012~
そして『TOKYO WOOD』の誕生へ。
長期優良住宅先導事業に採択された、『多摩の木でつくる家~いえともプロジェクト2010~』では、東京・多摩で生産された桧や杉などの木材で家をつくり『地産地消』を続けることで、木々を適切に伐採し、山を維持管理し、イベントや勉強会を通して地域住民と森づくりに取り組み、次世代に向けて新たに苗を植えて育てるという、森林の健全な木材生産サイクルを確立するものでした。自然環境を維持しつつ、「東京の森を守り、東京の林業の活性化」にも貢献するプロジェクトです。
そして、さらにこの事業拡大を図り、多摩地域の林業家・製材業・プレカット工場・小嶋工務店がひとつになり、一般社団法人TOKYO WOOD普及協会を設立。独自の基準で厳選した高品質な多摩産材を『TOKYO WOOD』と名付けてブランド化し、省エネ・エコなソーラーサーキットシステムと合わせることで、東京に住む人々の暮らしに合った“メイドイントーキョーの家づくり”を目指していった。
2013~
時間も手間もかかる天然乾燥を、
あえて選択。
小嶋の挑戦は始まったばかり、実現させるために奔走していた。『TOKYO WOOD』というブランドを確立し、普及させるために定めた品質基準は、関係者間でも難色を示されたほど厳しいものだった。その中でも特にこだわったのは、一般的な人工乾燥は行わず、天然乾燥を徹底すること。その名の通り自然に木材を乾燥させる方法で、非常に時間がかかり、場所もとる。それでもこの方法であれば、木の油脂成分が流れ出ずしなやかさと粘り強さを維持し、木目や色艶、香りなど、木が本来持つ魅力をそのまま活かすことができる。そこまでしたうえで、さらにグレーディング(品質検査)マシンで一本一本測定。含水率は20%以下、ヤング係数(強度)は桧でE90以上、杉はE70以上とし、数値で証明された確かな品質の木材のみ、『TOKYO WOOD』として採用した。
『TOKYO WOOD』を
実現するための覚悟。
しかし、『TOKYO WOOD』の品質や性能にこだわればこだわるほど、基準に満たない木材が増え、製材所の負担になることが課題となった。そこで小嶋はこれら木材も含めてすべて買い付け、胴縁や間柱、建具、床材などに余すことなく活用することを決意したのです。
『TOKYO WOOD』を永続的に供給するためには、木を守り、育て、森を管理する林業家や、豊かな経験と熟練の技術を持つ地域企業との連携が不可欠となる。その中で小嶋工務店がなすべきことは、“出口(市場・需要)をしっかりとつくること”に尽きる。『TOKYO WOOD』の家を作ることで、本来捨てる部分であった木に価値をつけて需要を増やしていくことも弊社の担うところであり、その覚悟が必要だった。
安定期
stable period
2014~
『ガイアの夜明け』放映。
低迷時代の終わりが、見えた。
『TOKYO WOOD』で家を建てて暮らす方々も私たちと共に地域に根付き、山や森、木ともつながりを持ち、何世代にわたり快適に暮らし続けるという、サスティナブルな社会形成までデザインしたこのプロジェクトは、大手ハウスメーカーやデベロッパーでは成しえることはできない、地元密着の企業ならではの取り組みとなった。
そしてこの取り組みは新聞や雑誌などさまざまなメディアで紹介され、特にテレビ東京の『ガイアの夜明け』での放映は、さらに多くの皆様にTOKYO WOODを知るきっかけとなった。プロジェクトに共感して頂いた方々からの問い合わせが急増し、確かな手ごたえを感じられるようになっていった。
長きにわたり辛く、苦しく、そして社員や職人さんと起死回生を信じてがむしゃらに走り続けた低迷の日々に、終わりが見えた瞬間であった。
2015~
創業者小嶋算が切望した創業50年を迎えて。
「ガイアの夜明けを見て、小嶋工務店さんを知りました」というお客様からのご相談も増え、株主からの信頼も厚くなり多額の出資を得ることができたとともに、銀行への負債を大幅に減らし、売り上げも14 年連続黒字を達成。
さらに弊社のビジネスモデルを大学で講義するなど、着実に『小嶋工務店』『TOKYO WOOD』というネームバリューを高めていき、創業者小嶋算が強く願っていた創業50 年を無事に迎え、記念式典もパレスホテル立川で開催。小嶋工務店が大きく飛躍する節目の年となった。
2016~
小嶋工務店のテクノロジーの集大成
宿泊体感モデルハウス誕生。
そして翌年には本社にほど近い場所に、東京都で初めて「長寿命住宅供給システムの認定」を受け、「長期優良住宅先導住宅に採択」され、「建築物省エネルギー性能表示制度(BELS)で最高水準の5つ星取得の省エネ性」を備え、『TOKYO WOOD』で作られた、ZEH(ネット・ゼロ・エネルギー・ハウス)住宅でもある、弊社の集大成となる宿泊体感モデルハウスをオープン。「体感住宅があれば、どれだけ高性能な家を作っているかもっとアピールできる、弊社の取組みやこだわりを説明できる!」と思い続け、ようやく完成させることができた。
ちなみに当時から弊社は全棟で長期優良住宅を採用しているが、2014年時点では、戸建てで長期優良住宅(設計性能評価=図面だけの評価)を採用しているのは全体の26%しかなく、建設性能評価(図面の評価の後に、評価通りに施工されているか検査を受ける評価・任意)にいたっては10%しか採用されていなかったのが現状。「長期優良住宅」はあくまで図面だけの制度でしかなく、建設性能評価を取得してなければ、本当に優良であるかは分からない戸建てがほとんどだった。
そのような中で、小嶋工務店は真面目に建設性能評価を受け、「真の長期優良住宅」を採用している、まさに世の中の10%に満たない優良戸建てを輩出する工務店であったと自負している。そしてその優良戸建てを包み隠さず体現し、しっかりと第三者の評価を受けていたのが、現在でも活躍しているこの宿泊体感モデルハウスだった。
変革期
period of change
2017~
一難去って、また一難。
「利益が少なすぎる?!」
順調に受注棟数を伸ばし、ソーラーサーキット工法における施工棟数も弊社が一番になるなど、安定軌道に乗っている、はずだった小嶋工務店。しかしここで新たな問題に直面してしまった。
「利益が少なすぎる?!」
決算の状況を確認した小嶋は、急いで購買部と経理部に確認。ここでようやく、売上に対する利益率の異様な低さを目の当たりにしてしまった。「苦手な経理関係を社員に任せきりにしていたツケがきた」と、小嶋は痛感した。
急きょ経理・会計書類をすべてひっくり返し、三日三晩徹夜して収入・支出などお金の流れをひとつひとつ洗い出し問題点を見つけ早急に解決していくという、怒涛の立て直しがスタートした。細かな会計管理や経費削減をするだけではなく、弊社に商品を卸している関係各社に集まっていただき単価交渉をしたり、新たなブランドづくりのための業者選定をするなど、時には心を鬼にし、決断を迫ることも。関係各社だけではなく、社員や小嶋自身も殺伐とした日々が続いた。
心を癒してくれた、『TOKYO WOODの詩』。
数字とにらみ合い、時には罵声が飛び交い、心身ともに疲れ切っていたある日の夜。小嶋が本社でひとり仕事をしていたとき、隣の会議室から歌声が聞こえてきた。
会議室では毎年7月に開催している「こじま祭り」の名物である、コジマバンドの練習が行われていたが、今までとは違う優しい曲調に思わず会議室を覗いてみると…
そこに流れていたのは、立川展示場のメンバーが作ったオリジナルソングだった。
『TOKYO WOODの詩』
小さな苗木が大きく育ち、きこり達の手で大きな丸太になって
確かな技術と思いが重なって、東京の木がこの街を造ってく
TOKYO WOODの家に、あなたと暮らそう
おはよう、おやすみ、きょうもありがとう、何気ない日々の営みを
育み守り、時に感謝して、東京の自然に寄り添って
TOKYO WOODの家に、あなたと暮らそう
TOKYO WOODの森を、豊かに育てよう
TOKYO WOODの家に、あなたと暮らそう
TOKYO WOODの森を、豊かに育てよう
未来へ、子供たちへつなごう
小嶋は自然と涙していた。涙が溢れて止まらなかった。 疲れ切っていた心が、すーっと癒されていった。 自分や社員たち、小嶋工務店を外から支えてくれている方々は、この詩のように、東京で育てた木々を次世代に繋げるため懸命に頑張っているのだと、改めて自分たちの使命に気付かされ、励まされた瞬間だった。
その晩はスマートフォンで撮影した練習動画を、歌声を何度も何度も聴いて、眠りについた。
この時の立て直しは功を奏し、少しずつ利益が積み上がり、第56期現在(2024年)でも黒字が確定し、現預金残高10億円以上を維持。TDB(帝国データバンク)の評価は60点(日本の会社の7割は赤字会社で、TDB評価50点以下が大半)まで改善している。
そしてあのつらい時期、小嶋を癒してくれた『TOKYO WOODの詩』は、今でもバスツアーなどのイベントで歌われ続けている。
2018~
東京都が認め、共同して誕生した三鷹モデルハウス。
さかのぼること2年前、2016年に東京都が2020年開催の東京オリンピック(実際は新型コロナウイルス感染症の世界的流行を受け2021年夏に開催)までに、多摩産材(東京の木)を普及拡大し、ブランド化を促進する事業『木の香る多摩産材普及拡大事業』を発表。これは、木材需要で大きな割合を占める住宅分野における活用を推進するため、三鷹の総合住宅展示場内に多摩産材を用いたモデルハウスおよびPRコーナーを建設・設置する事業者を募集し、そのモデルハウス建築費用の補助金と、展示場使用料金を東京都が負担するというものだった。
10年近くにわたり、多摩産材の普及に情熱を注ぎ続けていた(一社)TOKYO WOOD普及協会にとって、『TOKYO WOOD』が多摩産材ブランドのNo.1であると大々的に認知させることができる、またとない絶好の機会。林業家・製材工場・プレカット工場・小嶋工務店の皆が集結し、応募の締切まで2ヵ月ちょっとという密なスケジュールの中で打ち合わせを何度も重ねプレゼン資料を精査し、この事業に全力を尽くして挑戦。2017年4月、見事に採択されたのだった。
募集から採択通知が届くまでの5ヵ月余り、現業を抱えながら奮闘してくれた高井部長を筆頭とするプロジェクトチームは、弊社の宝だと小嶋は改めて実感したという。国の事業である長期優良住宅先導事業から始まり、数々の国や東京都の事業に採択し、弊社を年々レベルアップさせてくれる社員の力に、心から感謝の気持ちで一杯となった出来事だった。
そして2018年4月、満を持して三鷹モデルハウスがグランドオープン。若い世帯向けの3階建てのA棟と、LDK〜和室~寝室~水まわりが、すべて引き戸で段差なくつながる安心のバリアフリー設計を採用した、シニア層向けの2階建てB棟の2棟で構成され、どちらも構造材・内装材はもちろん、建具、家具、窓台、巾木などにも多摩産材をふんだんに採用。ソーラーサーキット工法の心地よさも加わり、小嶋工務店らしさがぎっしりと詰まった家が誕生。小池知事「知事の部屋」の記者会見でも紹介されたのだった。
2019~
立川に、2棟目のモデルハウスをオープン。
株主のサポートもあり、立川で2棟目となるモデルハウスを新たに建設。「働く女性が暮らしやすい家」というキーワードでプランニングし、水まわりをまとめた動線や開放的で家族を見守りやすいLDKなど、家事や子育てがしやすい間取りをはじめ、『TOKYO WOOD』をベースにしたナチュラルな内装に、モザイクタイルやボタニカルクロスなどで彩りをプラスした、エレガントな雰囲気のモデルハウスとなった。
『TOKYO WOOD』のビジネスモデルを、他社にも。
また、この頃から小嶋は、『TOKYO WOOD』による地産地消の家づくりのノウハウを活かして、仙台にある工務店のブランド材立ち上げのサポートを開始。どん底の状態から小嶋工務店を復活させ、新たな道筋を照らしてくれたこのビジネスモデルを、外の世界でも成功させられるか。これも新たな試みとなった。
2020~
チャレンジをし続けること、
第三者に評価されることが指針のひとつに。
ちょうど10年前の2010年、小嶋工務店の起死回生のきっかけとなった『国土交通省 長期優良住宅先導事業』の採択(受賞)を皮切りに、小嶋は逆境を恐れず前進し続けていくことを忘れないように、そして第三者から評価されることで弊社が掲げる「根拠のある住まい」を証明するために、毎年一つ以上の受賞・採択を目指そうと社員たちを奮起させた。小嶋の想いは社員たちの指針のひとつとして広がり、
- 2010年
- 『長期優良住宅先導事業モデル』採択(国土交通省)
- 2010年~2013年
- 『多摩ブルー・グリーン賞』経営部門 3年連続受賞(多摩信用金庫)
- 2011年
- 『東京都多摩産材普及拡大事業』選定(東京都)(立川第一展示場)
- 2012年~2014年
- 『地域型住宅ブランド化事業』3年連続採択
- 2015年~2021年
- 『地域型グリーン化事業』7年連続採択(国土交通省)
- 2017年
- 『木の香る多摩産材普及拡大事業』採択(東京都)
などの受賞・採択歴を積み重ねていった。
ウッドデザイン賞・グッドデザイン賞のダブル受賞
そして2020年には、『TOKYO WOOD』による地産地消の家づくりのビジネスデザインが、日本で最もメジャーかつ実績のある賞のひとつであろう『グッドデザイン賞』(公益財団法人日本デザイン振興会)を受賞。さらに木の良さや価値を、デザインの力で再構築した建築・空間や製品、活動や仕組み、研究等を評価し表彰する『ウッドデザイン賞』(一般社団法人日本ウッドデザイン協会・林野庁補助事業)も受賞するという、ダブル受賞を達成することができた。