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小嶋工務店五十年史 その2
2016.07.15
おはようございます、小嶋です。
今日は朝から小雨がぱらついていますね、暑さを感じさせないので小雨程度は歓迎しますが、現場が捗らないのも困るので、もう少ししたら曇り空のまま過ごしやすい一日にして欲しいですね。
さて、今回も前回に引き続き弊社の歴史について記載したいと思います。
30代半ばだった頃、会長と新潟にあるお墓参りに行った時のことでした。
何となく暇な車中ということもあり、創業当時の話を運転しながら聞いてみました...
時に昭和30年代、戦後という言葉が浸透し、戦後の復興や首都東京が大いに活気付いていた頃、弊社の会長は故郷の新潟県柏崎から当初は出稼ぎという形で働きに東京に来ていました。
(右から二番目が会長です。)
当初は大工になりたいと思いを馳せ、実家の近所にある建築会社で働こうとしたが、祖父が病気がちで、一家6人(祖父、祖母、長女、次女、次男)の生活費を一人で工面するには、丁稚といわれた当時の制度では給金が安く断念し、給金の高い、ダム工事の土方仕事をして生計を立たとの事でした。
ただやはり大工に成りたいとの思いは消えず、近所の建築屋の親方に相談にして、人一倍働くと交渉し人並みの給金として、大工仕事に従事したとの事でした。
尋常小学校(現在の中学高)を卒業した後、17歳で職に就いた会長は、その後人一倍働いたとの事です。
『今は週休2日だとか言っているが、当時は1日と15日の2日しか休みはなかった、でも大工仕事ができるのが嬉しかった』とその時話していました。
20歳を過ぎ数年してから、小嶋家の親戚が都心の会社で役員をしており、その方から官の仕事を請け負い、当時の新潟の職人を100人ほど引き連れ官舎工事等を請負ったとの事でした。いわゆる現在の現場監督のような感じでしょうか。
結婚し長男を授かった頃、出稼ぎから東京に定着するようになり、当初は杉並区の一軒やを借りて働いていたが、安定した場所で仕事をしたいと願い居を探している時、新潟の知人から『府中市新町に自宅を新築して欲しい』との依頼がはいり、『新築しても5年間は住まないので、会長に住まないか?』と言われ、杉並の賃貸から府中に引っ越す事になったそうです。
会長が、府中市の新町に住むようになって間もなく、お世話になっていた会社が倒産し、大勢いた職人さんを数名を残し辞めてもらう事になりましたそうです。この時、もう二度と下請け仕事はやらないと心に決め、昭和40年7月に、府中市新町で小嶋工務店を旗揚げしたとの事です。
(今はもう無い府中市新町の創業の地)
当時は、会長と母、弟子3人の計5人でのスタートし、先も見えず知らない土地でどうするか不安の毎日だったそうです。
初めての仕事は、隣の方から頂いた『トイレの修理』...
知らない土地で、仕事も無く時間だけが過ぎていた時、社交的だった母が隣の奥さんから相談され、修理のお仕事を頂いたとの事でした。代金は千円だったとの事。この時、近隣との関係、人との繋がりの大切さをあらためて感じたとの事でした。
その後、一年近く仕事らしい仕事が無く、困り果てたあげく、土地を購入し建て売り住宅の販売を考えたそうです。
自分の預金全額と購入予定の土地を担保に、信用金庫から土地代を借り、東大和市南街に50坪の土地を仕入れ代金にしたようです。チャレンジするならと精魂込めて建物を造り、販売しましたが一月が過ぎ、二月が過ぎても全く買い手からの音沙汰は無く、今思えば販売する手法や伝も無く、ネガティブな気持ちになり負が負を呼ぶものなのですが...
会長のツキはこの時から冴え渡っていたのかもしれませんね(笑)
売れなければ支払いは始まり、不安は不安を呼ぶものですが、ある日突然買いたいという買い手からの電話があり、色々苦労はしたようですが無事決済する事ができたそうです。そんな事もあり、未だに私が土地の仕入れをする計画をしていると、誰から聞いたのか現場を見に行くと一人で出かけてしまい、ああしろこうしろと、大半は聞いていませんが(笑)やかましいのなんのって(笑)
当時の若い二人の気持ちを考えれば、ホンとに辛かったと思いますし、今のこの年になって創業当時の辛さが少しは理解できるようになりましたが、知らない土地で事業を始める辛さは、楽しかったという会長の言葉を聞くと、少し頭がおかしいのではと感じてしまう私です(笑)
私は歴史の書物を読むのが好きですが、一番興味を持つのが、その時の気持ちです。人は誰もが失敗はしたくないもの、そして最短距離を歩みたいものですが、得てして最短距離を歩んだ人ほど不幸な結末を迎えているような気がします。たとえ時間が掛かっても人の心の奥底を見て慎重に動いた者ほど得ているものが大きいような気がしますね。
その後、飛躍していく中で、会長は数々の武勇伝、失敗をしていますが、不思議とその後大きく飛躍していてるような気がします。
その中でも、車中、恥ずかしそうに語った話の一つがあります。
『いや実は、指をなくしたお陰で会社ができたんだと』...
は、...なにそれ、ですよね(笑)
初めて聞いたときは、ヤクザの指つめかと思いましたが(笑)なんの事は無く、お金ができたから当時、最先端の電気カンナを購入して、弟子に使い方を教えていた時に、軍手がからまり、指が落っこちたとの事でした...
まあ、痛かったとは思いますが、そのおかげて労災が降り、そのお金で、有限会社にしたとの事です。
今でも海外の空港に行くと会長だけ、別室に呼ばれ『Are you a Japanese YAKUZA 』と言われるそうです(笑)
小さな??失敗を繰り返しながらも、創業5年目には社員数も20名を越え、新築100棟のお仕事を頂けるまでに成長した弊社。
その原動力は、常に前を向いた、雪深い田舎から出てきた夫婦の、人の気持ちを慮る精神にあるような気がしますね。
つづく
さあ、昨日はひどいめにあったので今日は一日がんばります!
小嶋工務店五十年史 その1
小嶋工務店五十年史 その2
小嶋工務店五十年史 その3
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