創業までの道程


出会い

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お見合い「出会い」

私は4人兄弟の長男でしたが、当時家業は田畑を持つ半農でした。東京で働いている私が、田舎に帰って来なくなる事を心配し、父は田舎の親方に相談、私に見合いを勧めてきました。「すぐに戻りお見合いをするように」と再三の電話。私は一日休みを取り、(当時の休みは月2日間)中野坂上の下宿先をオートバイ(ホンダの250cc)で朝4時に発ちました。国道17号を北上、高崎、渋川を過ぎ月夜野まで来ると、残雪の為、路面状況が悪く、悪戦苦闘。実家に着いたのが午後の6時でした。現在でこそ新幹線を利用すれば3時間程度旅ですが、オートバイで雪の中を14時間も走り続けた長旅でした。そんな状況ですから実家の母が大変心配し、神棚に手を合わせ無事を祈っていたそうです。

お見合い相手との最初の出会いは私が25歳、彼女が21歳の時でした。彼女は当時、病院に住込みで勤務しており、なかなか時間が取れない為、親方をオートバイの後ろ乗せ、私の方から会いに向かいました。病院に到着すると彼女が出てきたのですが「先生には内緒にしているので、外でしか話はできません。」とのこと。目立たぬよう、病院の外庭まで移動すると、親方は気をきかせ「この人が伊藤清子さんだ。後は二人で話しなさい、俺は帰る」と言ってその場を後にしました。病院の外庭は暗く、院内からの明かりが、かすかに顔を照らす程度、顔もよくわからない状況でしたが話をしているうちに「この人となら一緒になっても良いな!」と感じました。一目惚れではなく、「人身惚れ」です。2回目に会った時、「こんなに美人だったのか」と、改めて惚れ直したのを覚えています。

新婚生活へ

昭和38年4月に柏崎の実家で結婚式を挙げた私は、当時、千葉の習志野市で【関東財務局公務員住宅新築工事】を施工中でしたので、杉並区成宗の住まいではなく、習志野の工事現場で寝泊まりをしていました。

結婚式の次の日に、二人で成宗から習志野の現場に行き生活をすることになりました。妻は、私が長男であった為、結婚したら実家で「父母と一緒に暮らすもの」と思っていたようですが、「東京に行ける」と大喜びしたのもつかの間、習志野の工事現場を見て「ここで暮らすのですか?」と、急に笑顔が消え、帰りたいと言いだす始末。

無理もありません、野帳場と言われる仮設住宅は、仮枠に使ったパネルだけで建てたお粗末なもの。そこに雑魚寝です。50人以上の職人が寝泊まりをしている部屋と、パネル1枚だけで仕切られた隣の部屋で新世帯を持ったのですから。夜は酒を飲み暴れ出す職人も居る中で、妻はパートさんと共に、50人分の食事を3食作ってくれました。さぞかし大変な苦労であったろうと思います。私にしてみれば25歳で、50人もの荒くれ男を束ねてきた事が、後々、大変役立つ事になったのですが…。

自分の想いと、人生のチャンス

杉並の成宗に住まいを置き、様々の所で仕事をこなしていく中、昭和39年に長男が生まれました。子供の将来を考え、安定した場所で仕事をしたいと思っていた矢先、田舎の知人から、「府中市新町に自宅を新築して欲しい」との依頼が。さらに新築しても5年間は住まないので、私に、「住まないか?」とのこと。この事がきっかけで府中に引っ越す事になりました。(この地が小嶋工務店発祥の地となる)世の中はわからないものです。私が府中に住むようになって間もなく、大変お世話になっていた会社が倒産し、私も、大勢いた職人数名を残し辞めてもらう事になりました。これが独立のきっかけで、昭和40年7月に小嶋工務店を旗揚げしました。その時は、私と妻、弟子3人の計5人でのスタート。不安も多かった独立ですが、創業する時に自分なりに誓ったことが3つあります。
そんな事を誓いながら始めた小嶋工務店も、10日が経ち、20日が経っても、仕事の依頼は無く、「何とかしなくては」と考えていた矢先、隣の家の奥様から「トイレの調子が良くないので見てください」と言われ、初めてのお仕事を依頼されました。この時は、嬉しくて涙を流しながら、皆で抱き合ったのを覚えています。あまり大きな声では言えませんが、小嶋工務店、創業第1号のお仕事は、「トイレの修理」で、頂いた代金も千円であったと、今でも思っています。 見知らぬ土地で、大勢の人が出会い、助けて頂きながら「株式会社小嶋工務店」も今年7月に創業45年目を迎える事ができました。お世話になりました方々に、心より感謝申しあげます。と同時に、会社がいくら大きくなっても、世の中が変わろうとも、創業当時の喜びや感動は、いつまでも社是として伝えて行きたいと考えております。


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